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伊豆西海岸・土肥温泉のはなし ①土肥温泉の歴史 [温泉巡浴]

伊豆西海岸・土肥温泉のはなし ①土肥温泉の歴史

20年前、旅行業界に身をおいた初期の頃、中野区、練馬区の老人会を対象にした営業をしていた。中野区のある老人会の会長がハイカラな女性で、よく昔の旅行の話を聞かせてくれた。お名前が「矢作(やはぎ」さんという珍しい名で、愛知県岡崎・矢作(やはぎ)川そばの八丁味噌を思い出したものだ。
 彼女が戦前に(当然若い頃だ)西伊豆に旅行したことがあり、修善寺から馬車で塩原峠を越して、土肥へ抜けた。宿が3軒ほどあり、堂ヶ島を経由して松崎へ泊まったとか。堂ヶ島にはまだ宿がなく、土産屋があっただけとか。松崎には沼津などからの船便で賑わい、木賃宿に泊まったという。旅行者がほとんど無く、船原峠などは、追いはぎが出ても不思議ではなかったほどの山道だった。この話にとても興味を持ち、ずっと心に残っていた。温泉めぐりをしてから、各地の温泉開発の歴史にも興味を持った、きっかけだったように思う。

 さて、土肥温泉の歴史は平安時代中期にもさかのぼるという。

稲宮神社の境内に「ぬる湯」を発見した何代目かの水口秀次が、この湯を利用して「共同浴場」と早場米育成に成功した。韮山代官を通じ、毎年旧暦6月5日(新暦7月中旬)に日本一の早場米を江戸幕府に献上した。(参考資料:木蓮社発行伊豆の國第二集 土肥温泉誌 永岡治著)江戸時代初期慶長15年(1610年)に、安楽寺の山腹に金鉱が発見された。

坑道から湧き出た温泉は、「まぶ湯」として長く「共同湯」として使われた。他にも土肥神社境内に「大湯」「小湯」と呼ばれる「古湯」があった。明治37年(1904年)、地元の名士が共同で温泉ボーリングに成功し、勝呂宗平が明治館を、朝香平十郎、朝香安蔵は朝野家を創業した。次いで明治41年(1908年)、野毛新兵衛が海岸部に新温泉で土肥館を創業した。大正末期には8軒の温泉宿があった。大正8年(1918年)1月に若山牧水が初めて土肥に来る。それ以降、ぼつぼつ文人墨客が来るようになるが、観光客としての往来が盛んになるのは、バスの便が整備された昭和7年(1932年)まで待たねばならなかった。金山開発が盛んになるとともに、温泉は枯渇の一途をたどり、昭和15年についに枯渇する。昭和28年(1953年)金山坑道内の高温(57度)温泉を町へ供給する協定が結ばれ、温泉が復活。昭和40年代に八木沢、水口、馬場、中村、小土肥も温泉ボーリングで湧出される。最盛期の昭和50~60年代には旅館・ホテルが54軒、民宿が110軒、年間宿泊数が90万人を超えた。

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