文学を訪ねる温泉紀行 熊本県 杖立温泉 火野葦平ゆかりの宿・不老館改め葉隠館 [文学を訪ねる温泉紀行]
火野葦平氏
火野葦平は、日中戦争を体験し、戦時、戦後に「糞尿譚」「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」「青春の泥棒」「花と龍」「革命前夜」などを著した。昭和21年、「文芸」12月号に「幻燈部屋」第四部を発表。その中に杖立温泉を舞台にした悲恋物語「花扇」が掲載された。戦後二回にわたり杖立温泉の河岸の木造4階建て旅館、不老館(現・葉隠館)の4階「はぎの間」に1ヶ月余滞在し執筆した。
火野葦平が滞在した葉隠館の「はぎの間」
このんで描いた河童の挿絵
「花扇」は、実直な金貸業の久賀国蔵と遊び人新見一策の二人の男の間を行き来する生花師匠・寺岡紀美の悲恋物語である。生花師匠を生活の基盤としながら退廃的な新見の妾の紀美は、純朴で美男の国蔵に近づきついに関係を結び、数か月が過ぎた。そして、懐胎という「肉体の遊戯に対する刑罰」が与えられた。しかも一策から悪い病気を移されたことを知り、「死刑の宣告を受けたかのような切羽つまった」決断を迫られる。湯能見嶽(現・湯乃美岳)に国蔵を誘う。「自分の鬼のようなこころが肉体の清浄へあこがれる人間のせっぱつまった祈りであることを確信し、しっかりと世にまれなつよい愛情で結び合わされた美しい二つの肉体を亡(ほろぼ)して、いっさいの汚濁に決別すること」にしたのだった。
第二次世界大戦によって石炭の生産量が半分になったが、急速に復興の兆しを見せる時代背景の中、杖立温泉は鉱夫達の憩いの場として活況を呈していた。昭和33年(1958年)売春防止法が施行される前まで、40余軒あった旅館は、22~23軒(現在は19軒)に(穴井昭二元郵便局長86歳による回顧)なった。当時の芸妓20人と酌婦20名ほどが置屋に登録され、団体客で賑わっていた。穴山氏によると背戸屋と呼ばれる狭い階段の路地には宴会後の客が三味線や太鼓を鳴らして行列をなしていたという。杖立川の河畔には共同浴場は散在(現在は元湯、薬師湯、御前湯の三か所のみ)している。作品で描かれた芸娼妓をかかえた検番や置屋、ビリヤードやコリントゲームはもうないが、「蒸し場」の竈はいまも残り、風情を残している。
昭和初期の杖立温泉街
今の杖立温泉街
JR日田駅から路線バス45分ほどで杖立温泉に到着。観光案内所へ立ち寄り、「杖立温泉の歴史資料がないか」を尋ねるが、「何度かの大水害で流失したなどでない。郵便局の元局長さんなら知っているかも」というのでさくら橋を渡った突き当たりにある杖立温泉郵便局へ行く。そこへ郵便局長の父上の穴山昭二氏が来ていただきお話を伺った。過去に三度の大水害や山崩れ(昭和28年、昭和57年、平成5年)や昭和30年代の最盛期の様子を興味深く伺った。
火野葦平が滞在して執筆した宿・不老閣は、昭和47年から経営が権藤芳春氏に代わり宿名は葉隠館になった。表から見ると外側に鉄筋の補強がされているが、内部は昔の木造4階建てである。玄関を入ると左手の間は懇談室、正面がフロント。奥は厨房と男女別浴室。部屋数は11室。火野葦平が滞在した部屋は4階の和室6畳の「はぎの間」で、杖立川には面していない。縁側にトイレがあり、外へ身を乗り出して左手を覗くと何とか杖立川が見える。室内には唯一机が当時のまま残されている。壁には葦平が好んで描いた河童の挿絵の額が三つ。「花扇」に「不老閣を見ると三階の角の部屋に紀が国蔵を見つけて手をふっていた」とあり、滞在の部屋から1階降りた河岸に面した部屋に舞台を想定している。杖立川の流れは強く、川音は耳障りと感じてくる。私はエアコンの音と思っていたのが、停止しても変わらない騒音に改めて川音の激しさを思い知った。火野が4階の一間引き下がった「はぎの間」に滞在した理由はそこにあるのかもと思った。
河岸にある「元湯」
「元湯」は、応仁天皇産湯の地として知られ、「湯に入って病治ればすがりてし、杖、立て置いて帰る諸人」の碑あり。注がれる湯量が少なく湯温は36度くらいか?これでは無理と階段を登り、「薬師湯」へ。入り口に200円をお賽銭箱へと案内があるが、生憎手ぶらで来てしまった。入浴中のお年寄りに許しを乞うて入浴にありつける。杖立温泉の歴史の話を聞くと浴場の上が湯鶴薬師堂その上の集会場に資料があるというので案内をしていただいた。それは大きな額で、昭和15年の大水害の被害状況を書き連ねたものだった。
宿の大浴場「浪漫の湯」は更衣室から4段下がったところに鍵型の浴槽、中央に幼児が寄り添う湯壺を持つビーナス像が美しく湯けむりの中に立つ。湯は無色透明。泉質は弱アルカリ性食塩泉。とくにメタケイ酸が1リットル中に225.5mgと目立ち、肌に強いつるつる感がある美肌の湯。奥にむし湯の入り口(50×60㎝)がある。腹ばいで入ると床に敷かれた簀の子の下から噴出する蒸気が熱すぎて、1分といられない。早々に飛び出した。冷たい水でも撒くのだろうか?女性用の浴室はもっと小ぶりで、ビーナス像はない。
夕食膳は2階の部屋に仲居の大場さんが運んでくれる。葉隠館では、健康志向の体にやさしい地元有機野菜や漢方生薬を活かした和・洋・漢折衷の器も美しい美味しい夕食膳であった。馬刺し、鮎の塩焼き、藻屑酢、蕎麦、鰈の唐揚げのバジルソース和え、牛筋、小国ジャージ牛乳の洋風茶碗蒸し、里芋、オレンジソースを使った赤身魚のポアレ、牛と野菜の陶板焼き、漢方生薬スープ、赤米ごはんに香の物。1泊2食付8,950円の料金にしてはと大感激!満室の折は、2階の2つの宴会場を使用する。囲炉裏座敷の山季楼は天井の水彩画、壁の浮世絵がこの宿の名物。大宴会場の天井絵も見事だ。
大場さんは翌日、日田駅行のバスに同乗した。1年ほど前に膝を温泉治療のために杖立温泉の葉隠館に来て、驚くほど改善したという。女将さんから、「ここで働きながら治療を続けたら」と誘われ、階段の多い旅館がリハビリになったのかも知れないという。療養温泉地ではこうした話は珍しくない。それだけ病状と温泉の泉質が合えば、温泉療養の効果があるということだ。
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温泉を訪ねる文学紀行 下部温泉・古湯坊 源泉館と井伏鱒二 [文学を訪ねる温泉紀行]
下部温泉・古湯坊源泉館の井伏鱒二が逗留した部屋の丸窓
武田信玄の隠し湯で知られ、骨折や胃腸に特効があるといわれる下部温泉へ行った。信玄ゆかりの三古湯の一つ、甲府の積翠寺温泉、西山温泉と並んで下部温泉の名があげられる。古湯坊源泉館の混浴名物岩風呂は昔から旅館の外湯として利用されてきた。裏手にある280段の階段を登る熊野神社には、松葉杖を引いてやってきた湯治客が滞在中に全快し、ご用済みになった松葉杖や義足を奉納して帰ったという。それだけ効能が確かだった。今では交通事故等の後遺症やスキーなどでの骨折など運動器障害でくる湯治客や療養者が多い。漁師が鉄砲玉を足に受けたのが、下部の湯に浸かり浮き出てきたという話もある。
下部温泉街
JR身延泉下部温泉駅
別館神泉(外湯・共同浴場)
古湯坊源泉館正面
源泉館のロビー
源泉32度の単純泉で源泉は3ヶ所ある。共同浴場は、町立温泉会館、別館神泉(源泉閣の岩風呂)の二ヶ所。下部温泉の歴史は古く、景行天皇の時代に汐海足尼(しおみたるに)という人によって発見され、その後戦国時代に武田信玄の隠し湯として傷病兵たちを治療させた。江戸中期創業の老舗、古湯坊源泉館には、万延2年(1861年)の宿帳、安永2年(1773年)の湯銭請取帳、弘化3年(1846年)の湯銭帳、また武田信玄や武田信虎、24将の一人馬場美濃守、穴山梅雪から賜った浴場並びに土地免状などがあり部屋には24将の名が付いている。
古湯坊源泉館に残る古文書
別館神泉1階の混浴かくし湯大岩風呂へ行く。男女別更衣室から出ると、第二別館の地下から湧きだした湯を引いた沸かし湯の小さい湯船、階段を下ると足元から湧きだしている15畳ほどの岩風呂がある。床は木造り板が敷かれて、右奥の一角が深い岩風呂。足元から湯が沸いてくるという全国でも珍しい足元湧出温泉だ。ここでは男性は臀部を湯の中でもタオルで隠し、女性は胸から下を隠す湯浴み着を身につけて入浴する。5~6人ほどの入浴客が四方山話に花を咲かせている。32度ほどの冷泉なので、20~30分ほども入浴していないと寒くてあがれない。加温した湯船に入り、これを繰り返す。隣のおじさんは「膝を痛めて、医者に硬直してもうだめだな・・・。といわれたが、ここで1週間湯治して膝が伸びるようになった。それ以来毎年2~3回来ていてもう6年目になる」こうした話は珍しい事ではない。井伏鱒二の著書「下部の湯元」で、「大岩風呂の天然の岩肌に1尺ほどの鉄棒が打ち込まれていた。・・・中番に聞くと“昔、あの棒にもっこを吊るしましたんです”と言った。大怪我をして殆ど砕けてしまった人間をもっこやざるに入れ、うまく鉱泉に浸かるように吊るしたのだそうだ」それほどにこの湯は効能が高かったという。ここでは天然鉱泉水(ナチュラルミネラルウォーター)と源泉を利用した美容液を販売している。館内には無料で鉱泉水を飲むことができる。
本館5階には、2006年に地下1200mから湧きだした51度の単純泉「しもべ奥の湯」がある。1・5×2・5mの木造造りの湯船で源泉と季節により加温した湯が湯船に注がれている。いくらか硫黄臭があり、無色透明だ。女性用は2階にあり、いずれも24時間営業だ。
かくし湯大岩風呂(宿のパンフレット).一部の時間を除いて混浴
本館5階にある「しもべ奥の湯」
1階ロビーには、無料で鉱泉水が飲める
和室10畳トイレ付
お正月なので、お茶請けの他におせち料理が用意されていた
夕食膳は部屋に運んでくれる。今回の宿泊料金は、お正月料金2名1部屋で@16,000円だった。筋子・煮貝・わかさぎの先付、牛蒡・いんげん・筍などの煮物、鮪・鯛・甘エビなどのお造り、サーモンのホイル巻き、あんきも、海老・茄子・タラの芽の天ぷら、グラタン、蛤汁、卵焼き、宝刀鍋、ご飯、いちご・ぶどう・、みかんのデザート。山の温泉ではあるが、お刺身が美味しい。ご飯はおにぎりにして後でいただいた。
お部屋で夕食膳をいただいた
夕食膳の一部・はまぐりとデザート
岩魚の骨酒・香りがたまらない・・・・
井伏鱒二が古湯坊源泉館に逗留して描いた作品「雨河内川」を読んでみた。「文学界」に掲載された釣り談義の話が気に食わないと気にしたり、源泉館の混浴大岩風呂でのお客の口げんかの様子を書いている。井伏鱒二の釣りの師匠としていた下部温泉街にある理髪店「やまめ床」の先代依田喜史さんとの交流ぶりが作品に現れている。井伏鱒二が泊まった部屋・本館三階(斜面にたつ増築の為、実際は五階)の部屋を見せていただいた。和室10畳の南側に縁側と洗面所があり、丸窓には鳳凰?をかたどったステンドグラスがある。床の間には、井伏鱒二の写真が飾られている。執筆しながらときどき窓外の下部温泉街を見下ろしていたのだろう。昭和48年(1973年)75歳の井伏は、源泉館を最後に訪れている。
井伏鱒二が逗留した部屋
鱒二の写真が飾られる
縁側から見た温泉街
丸窓のステンドグラス
宿から歩いてすぐにある理容店「やまめ床」を訪ねた。名つけ親の井伏鱒二とこの床屋の親父さん依田喜史(よしふみ)氏(大正2年生)との川釣りを通しての交流が続いた。鱒二は昭和4年(1929年)、31歳の時養生を目的に初めて下部温泉を訪ねた。当初守田屋に泊まって共同湯の源泉館に入浴に行っていたが、後に源泉館に宿を替え、その後もたびたび源泉館を訪れ釣りを楽しんだ。依田は井伏のヤマメ釣りの師匠と呼ばれていた。長逗留しては、依田に髪を刈ってもらい釣り談義に花を咲かせた。私もそれに見習って、「やまめ床」で息子の依田啓史(ひろし)氏に髪を切っていただきながら、喜史氏と井伏鱒二のことを語っていただいた。喜史氏は18歳で甲府の理容学校を出て、この床屋に戻ってきたのは21歳から。父(58歳)と母(50歳)、姉と仕事をした。休日には父は川釣りへ、鱒二に誘われればいつでも同伴して行ったという。当時床屋は4軒あり決して暮らしぶりは良くはなかったという。「昭和40~50年のころ下部を訪れる観光客が47万人をこえて最盛期だった。床屋のお客も観光客が50%だった。今は湯治・観光客はわずかに5%くらいかな」という。啓史氏は、昭和50年頃「川釣り」という一冊の本が知り合いから父宛に送られてきて以来、下部の地を描いた作品で「井伏鱒二作品展」をやりたいという思いが募り、2006年に甲斐黄金村・湯之奥金山博物館で、第10回特別展「つり人・井伏鱒二~しもべを愛した文学者~」を実現させた。下部とかかわりのある作品群を調べ、「富士川支流」「飯田龍太の釣り」「川で会った人たち」「余談」「阿佐ヶ谷の釣り具屋」「樟脳の粉」など多くの作品の名簿と井伏鱒二・依田喜史の年表を作り上げた。
啓史氏は昭和25年生で私と同年で、ついそれぞれの生き方や子供たちの話に花を咲かせた。
「やまめ床」の二代目依田啓史氏
昭和40年頃の依田喜史ご夫妻の写真
俳人飯田龍太氏と井伏鱒二の写真(昭和40年5月頃)
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文学を訪ねる温泉紀行17. 七沢温泉 小林多喜二ゆかりの宿・福元館 [文学を訪ねる温泉紀行]
福元館の露天風呂
神奈川県厚木、大山の東稜に位置する東丹沢には、飯山、別所、広沢寺、七沢温泉といった静かな温泉郷がある。七沢温泉は江戸時代宝永年間(1772~1780年)に発見されたといわれ、文久年間(1861~1863年)には、湯治客や大山詣での参詣客で賑わっていた。湯は強アルカリ泉で、温度は23度で加温している。昔から子宝の湯といわれ、胃腸病、神経痛、婦人病、高血圧症などに効能がある。昭和2年(1927年)には旅館が3軒、現在は6軒。明治22年(1889年)の七沢鉱泉浴客人員は年間6,856人の記録が残る。
七沢温泉の風情・6軒の宿が散在
福元館正面
福元館のロビー・フロント
福元館の大女将古根村喜代子さん
福元館は七沢温泉最古の宿といわれ、源泉の濃度も最も濃いと宿の自慢である。大女将古根村喜代子さんは、「足が悪くて・・・・」といいながらも和服姿の端正なお姿で話をしていただいた。小林多喜二ゆかりの宿と判ったのは、大女将が、平成12年(2003年)3月に伊勢原在住の多喜二研究家蠣崎(かきざき)澄子さんからの突然の電話「多喜二が泊まっていたのは、福元館さんではないですか?」に、つい「はい、そうです」と言ってしまってからだ。喜代子さんは昭和23年(1948年)に嫁に来た際、先代の女将ヤエさんから、「小林多喜二をかくまって離れに泊めたことを、口外しないように」と強く口止めされていた。以来、実に54年間、小林多喜二を匿ったことをだだ一人心に秘めていたのだ。
小林多喜二は小樽から上京したが、治安維持法違反で起訴され、昭和5年(1930年)6月に豊多摩刑務所に収容され、翌年1月に保釈される。常に素行を監視され再検挙の危険に晒されていた。同年3月、多喜二は療養と「オルグ」や文芸評論執筆のために福元館の離れに逗留した。離れは、本館と道路を挟んだ高台にある木造の和室(3+6+8畳トイレ付)で、大正6年(1917年)に建築され、夏休みの学生などの合宿用に使われていた。約1年いた多喜二を世話していたのは、仲居の「おうめ」さんだった。玄関を入ると左手の3畳の間の古机でいつも丹前姿で書物をしていた。風呂上りに浴衣を着せる時に、多喜二の首から背中にかけて拷問の跡である無残な傷跡を見たという。女将のヤエは、彼岸花の根を摩り下ろし、卵や小麦粉、酢をまぜて湿布薬を作り貼り替えてあげていた。官憲に見つかれば、匿った罪で商売はおろか、命がけの行動だった。
本館向い高台にある「離れ」
玄関すぐの3畳間のしゃれたガラス窓
修理中の「離れ」部屋
私が福元館の「離れ」を尋ねたのは、2010年10月10日。多喜二を慕うファンのために、「離れ」を 資料館として整備するため大工さんに頼んで修理中だった。玄関すぐの間のしゃれたデザインのガラス戸は当時のままだ。大工さんが床下で板に書かれた鯉の絵を見つけた。これは多喜二が描いたものなのかはまだ判らない。新館が昭和55年(1980年)に建てられた時に多喜二が残していったグッズ(かばん)が焼かれてしまった。今思うと多喜二の貴重な資料が失われ、とても残念だ。離れの前に梅の古木が生き延びている。案内していただいた酒井礼子さんは「私が小学2~3年の頃、この梅の木を覚えています。昔はこの坂は土造りで、どんどん崩れて、梅の木の外側はもっと残っていた」と感慨深げだ。大女将は、私が東京の青梅から来たというと「懐かしい。昭和37年頃まで、青梅縞の反物を浴衣や丹前用に買いに行っていたのよ」
浴室は男女2ヶ所あり、男性用は大浴場で横が2~3m×5.5mのタイル張り。女性用は小さい内湯1.5m×2mと露天風呂があり、13時~20時で男女交替制になっている。地下13mから自噴の強アルカリ泉が毎分7.1リットル湧出。源泉は23度で加温、飲泉もできる。小浴場のすぐ裏手に源泉があり、源泉が近い分つるつる感が強い。多喜二がいた頃の湯船は「七沢石」造りの湯船(2×3m)で隣に水風呂もあり、多喜二は夕方に入浴に来ていたという。
大浴場内湯
小浴場内湯
露天風呂
フロントの壁に多喜二の直筆の色紙「我々の芸術は、飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ 31.11.10 小林多喜二」を見つけた。これはある大学の先生が銀行の貸金庫に預けていたものをゆかりあるこの宿で保管した方がよいと贈られたものという。
フロントに掛けられた多喜二の色紙
「蟹工船」で有名な多喜二のプロレタリア作家時代は、4年4ヶ月という短い期間だった。「1928年3月15日」という最初の作品を世に出して以来、前半が小樽、後半が東京での作品である。「工場細胞」「オルグ」「党生活者」では、小樽の日露漁業の缶詰の缶を作る、蟹工船の缶を作る工場での戦いを描いたものであり、作家生活の丁度中間の時期に当たる。ここには「オルグ」の原稿などの直接的な資料は残されていないが、執筆された古机や部屋の佇まいなどが再現して残されるのは喜ばしい。11月20日(土)に多喜二資料館(名称はまだ判らない)が完成するので、ぜひ又伺いたいと思いながら福元館を後にした。
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文学を訪ねる温泉紀行16. 岩手県花巻市・花巻温泉郷 [文学を訪ねる温泉紀行]
金森 達 画
花巻温泉郷には、豊沢川などの渓流沿いに12の温泉地がある。大沢温泉、志戸平温泉、松倉温泉、渡り温泉、高倉山温泉、鉛温泉、新鉛温泉、山の神温泉、花巻温泉、台温泉など昔ながらの自炊も可能な湯治宿から近代的なリゾートホテルまで、42~78度までの多彩で良質な温泉で知られている。
鉛温泉の藤三旅館は、田宮虎彦(1911~1990年)の43歳のときの作品「銀心中」の舞台となり、田宮虎彦が滞在したところ。主人公の佐喜枝は、ともに理髪店を営む夫の甥・珠太郎に恋をし、彼を追って白い雪に包み込んだ銀温泉にやってきた。だが、珠太郎に拒否され、いつも持ち歩いていた剃刀で手首を切り、銀温泉で働く男と心中して果てる。この温泉の舞台となった鉛温泉は当時の雰囲気のまま、今も佇んでいる。
宮沢賢治(1896~1933年)も花巻温泉郷に縁の深い作家である。岩手県を理想郷として「イーハトーブ」と呼んだ花巻農学校の教師宮沢賢治は、花巻温泉郷の釜淵の滝や大沢温泉で実習教育をしたという。賢治の童話「なめとこ山のくま」には、鉛温泉が登場する。高村光太郎は、東京空襲にあい友人だった宮沢賢治の弟・清六に誘われ、花巻に疎開した。戦後の独居生活の傍ら、大沢温泉山水閣の露天風呂に入浴し、部屋でよく牡丹の絵を描いていたという。
追記:私のお気に入りは、鉛温泉の藤三旅館と大沢温泉山水閣。藤三旅館は、昭和16年築の木造3階建ての風格ある旅館で4ヶ所の源泉と5ヶ所の湯船がある。底からぷくぷく湧き出る「白猿の湯」は深さが125センチもある天然掛け流しの湯。混浴だが女性専用時間もある。大沢温泉山水閣は、自炊部と旅館部のいずれにも浴室があり、さまざまな浴槽に入浴できるのが魅力だ。特に宮沢賢治が少年の頃、よくいたずらをしたという豊沢川の渓流を眺めながらの露天風呂入浴は最高だ。
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文学を訪ねる温泉紀行15.栃木県 塩原温泉 [文学を訪ねる温泉紀行]
東北自動車道西那須塩原インターから約15km、新緑と紅葉が美しい箒川沿いに、続く塩原温泉は大網、福渡、塩釜、塩ノ湯、畑下(はたおり)、門前、甘湯、古町、奥塩原(新湯)、元湯温泉らの古くから「塩原十一湯」として知られている。最古の温泉は806年発見といわれる塩原元湯・旅館えびすやの「梶原の湯」、また1695年の地震による山津波で元湯が壊滅したとき、新しく湧出した新湯など歴史と泉質、景勝はそれぞれ異なり175の源泉を持つ。
尾崎紅葉は明治32年6月、畑下温泉の佐野屋旅館に滞在し、読売新聞連載の「金色夜叉」続々編を執筆していた。「一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方りて箒川の緩く廻れる磧に臨み、俯しては、水石の粼々たるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六の翠巒と対して、清風座に満ち・・・素繍(ねりぎぬ)を垂れたる如き吉井滝あり。」と箒川沿いの塩原温泉を喝破していた。
他に夏目漱石、斉藤茂吉、野口雨情、山岡荘八などの文人墨客が塩原温泉郷に魅せられ、訪れている。
牡丹の名所・妙雲寺には、松尾芭蕉や夏目漱石、斉藤茂吉などの文学碑や歌碑がある。
追記:塩原温泉郷には、多くの共同浴場があり、福渡温泉の「岩の湯」「不動の湯」、新湯の「むじなの湯」は混浴でいまだに湯治温泉の風情を残している。塩原温泉郷には、「湯めぐり手形」(900円)があり、「手形」を購入すると、加盟のホテル旅館の入浴料が半額、1ヶ所が無料になる。又物産店や飲食店で割引などの特典がある。
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文学を訪ねる温泉紀行14. 群馬県草津温泉 [文学を訪ねる温泉紀行]
金森 達 画
群馬県白根山の中腹、標高1200mの高原にある関東の名湯。強酸性泉で知られ、皮膚病や性病に特効があることから湯治場として発展してきた。温泉の歴史は古く、大和朝廷の頃、日本武尊によって発見された、奈良時代に僧行基によって開湯された、源頼朝が狩に来たとき発見したなどの諸説がある。
温泉中央に、煮えたぎる64度の源泉が沸騰する草津のシンボル「湯畑」があり、ここから各ホテル・旅館へ木の樋で配湯している。明治時代にドイツのベルツ博士によって世界に紹介され、有名になった。文政年間(1818~1830年)に十返舎一九が訪れ、「続々膝栗毛第十編・上州草津温泉道中・上下」を記した。小林一茶や草津節の作詞家でも有名な小説家平井晩村、水野仙子、大町桂月らが訪れている。草津温泉を舞台にして描いた小説には、荻原朔太郎の「猫町」がある。詩人として活躍したが、短編小説「猫町」は、草津温泉と思われるK温泉近辺を散策するなかで垣間見た、町の街路が猫で充満する幻想的な町の話である。「その頃私は、北越地方のKという温泉に滞留していた。九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中で、もうすっかり秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。」
追記:関東の名湯として、私も草津温泉は何度もよく行く温泉地の筆頭である。泉質がよく、温泉情緒があり、歓楽的な豪華ホテルから湯治客専用旅館まで、さまざまな個性のある宿泊施設がそろう、いろいろなお客を送客できる絶好の温泉地である。湯畑を中心に、18の共同浴場があり、湯もみが有名な草津だが、「熱の湯」では湯もみと湯もみ踊りのショーを見ることができる。
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文学を訪ねる温泉紀行 13.福島県 東山温泉 [文学を訪ねる温泉紀行]
東山温泉は、奈良時代の僧行基により発見されたと伝えられ、かつては「天寧の湯」といわれた湯治場だった。美しい渓流、湯川を中心に旅館が立ち並び、滝が多かったため「新瀧」「向瀧」「原瀧」「千代瀧」など瀧の名をつけた旅館が多い。江戸時代は会津藩の保養所として、明治以降は会津の奥座敷として東北を代表する温泉地に繁栄した。当時、しゃれた洋館「新瀧」には、多くの文人墨客が訪れた。
明治44年与謝野晶子が鉄幹、佐藤春夫らと東山温泉「新瀧」を訪れ、滞在中に呼んだ句は「歌集 青海波」に収められた。さらに20年後の昭和11年、息女の藤子さんと再訪、「湯ノ川の第一橋をわがこゆる 秋の夕のひがし山かな」
明治42年、大正10年、昭和5年、竹久夢二が東山温泉を訪ねた。スケッチブックを片手に散策し、女性や風景を描いた。代表作の「宵待草」はこの時期に描かれたイメージが原型といわれる。「新瀧」に残された掛け軸の美人画は、東山芸妓とんぼがモデルといわれる。
金森 達 画
追記:明治元年(1868年)戊辰戦争の悲劇的な死を遂げた白虎隊の飯盛山、鶴ヶ城、武家屋敷、漆器工房の見学は、かつて観光バスでのお決まりのコースだった。とくに飯盛山での白虎隊士のお墓参りからお土産屋での白虎隊の剣舞と買物が人気だった。
会津藩の温泉療養所だった「きつね湯」は「旅館向滝」、共同湯は「庄助の宿 瀧の湯」、東山温泉で最も古い3つの源泉(猿の湯、こがの湯、不動湯)を所有する「不動滝旅館」にも当時浴場があった。新撰組副長土方歳三が宇都宮での合戦で、足に傷を負いここで湯治をしたと伝えられている。
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文学を訪ねる温泉紀行12. 新潟県 松之山温泉 [文学を訪ねる温泉紀行]
古くからの湯治の地で、草津、有馬と並ぶ日本三大薬湯の一つで、豪雪と奇祭で知られる薬効高い温泉である。正平年間(1346~1370年)に一羽の傷ついた鷹が足を癒していたという伝説が残る。「鷹の湯」「鏡の湯」「庚申の湯」の三地区に分かれており、温泉街を形造っている「鷹の湯」が中心。自噴で湯量豊富な98度のナトリウム・カルシウム-塩化物温泉に恵まれ、3ヶ所の共同浴場「鷹の湯」「ナステビュウ湯の山」「庚申の湯・露天風呂」がある。松之山には古くから伝わる奇祭「むこ投げ」と無病息災と家業繁栄、豊作を願って行われる「すみ塗り」がある。
金森 達 画
松之山温泉には、旧家村山家31代の現当主が700年近い歴史を持つ村山家旧宅と庭を博物館にした「大東山美術博物館」がある。豪農の暮らしを伝える生活調度品や書画・芸術品の他に、現当主の叔父にあたる坂口安吾の遺品が展示されている。坂口安吾は、叔母の貞と姉のセキが二代続けて嫁いでいたことから、昭和5年から13年にかけて煩雑に訪ねていた。松之山温泉を舞台にした作品には、「黒谷村」「不連続殺人事件」「逃げたい心」がある。とくに昭和10年に発表された「逃げたい心」は、昭和初期の松之山温泉の様子が描かれている。「松之山温泉から一里はなれた山中に兎口(おさいぐち)という部落があり、そこでは谷底の松之山温泉と反対に、見晴らしのひらけた高山に湯のわく所があった。一軒の小さい湯宿があるばかりで、ほとんど客はないのであった」
追記:松之山小学校前のブナ林の中に、小説「黒谷村」の冒頭文が刻まれた坂口安吾文学碑がある。散歩好きの安吾が通ったという松之山から兎口、湯峠を経て湯本に至る一周8.5kmの「安吾の散歩道」があり、坂口安吾を偲ぶには絶好のお薦めコース。
松之山は、日本の原風景として残る「棚田」と「美人林」でも有名で、今でも四季折々の感動を与えてくれる。
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文学を訪ねる温泉紀行11. 熊本県阿蘇・垂玉温泉 山口旅館 [文学を訪ねる温泉紀行]
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二百数十年前、この地にあった「金龍山垂玉(すいぎょく)寺」の修行僧たちによって発見され、一時洪水で埋没したが、江戸末期からは名湯を誇る湯治場として有名だった。一軒宿の「山口旅館」は、明治時代に多くの文人墨客が訪れた。与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の五人の新詩社の歌人たちは、垂玉温泉「山口旅館」や栃木温泉「小山旅館」などに宿泊しながら九州旅行記「五足の靴」を交互に書き上げた。「山口旅館」の前に「五足の靴碑」がある。「五足の靴」は、その後これらの詩人歌人の開眼に大きな役割を果たし、後に白秋の「邪宗門」「天草雑歌」、杢太郎の「天草組」「戯曲 南蛮寺門前」は、この旅に着想をえて誕生した作品といわれている。野口雨情もこの宿で「阿蘇垂玉 夜峰の南風は そよそよ夏知らず」と詠んでいる。
「五足の靴」は、1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部を中心に1ヶ月旅をして五人が執筆した紀行文である。東京二六新聞に29回にわたり連載された。垂玉温泉には8月13日に泊まり、翌日阿蘇登山をし、中岳火口を覗き、噴火活動のすざましさに感動している。
追記:山口旅館は、私が泊まった温泉巡浴888ヶ所目の宿で、岩山金龍山から落下する三条の滝を愛でながら入浴でき、滝つぼから湧き出る混浴露天風呂が印象深かった。女性用に湯浴み着が用意され、混浴でも連れと一緒に入浴しやすい心遣いがされていた。頭上には藤棚があり、時期には幻想的な風情が楽しめる。車で5分ほどのところにある地獄温泉も江戸時代からの湯治宿で、混浴風呂「すずめの湯」が有名である。こちらの泉質は、同じ硫黄泉だが乳白色である。
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文学を訪ねる温泉紀行10. 長野県別所温泉 [文学を訪ねる温泉紀行]
金森 達 画
別所温泉は清少納言の「枕の草子」に「七久里(ななくり)の湯」と書かれるほど歴史の古い温泉である。塩田平は、鎌倉時代の文化財的な寺院建築物が残り「信州の鎌倉」と呼ばれている。真田幸村の隠し湯「石湯」、慈覚大師が入浴したといわれる「大師湯」など外湯でも有名。善光寺の南向きに対する北向観音が近くにあり年間を通じて参詣客が多い。別所温泉にある愛染明王堂前にある大かつらからヒントを得たという川口松太郎の「愛染かつら」は、昭和13年「旅の夜風」を主題歌として映画化された。上田市出身の久米正雄は、「父の死」「不肖の子」「路傍」などの作品に別所温泉を描いた。池波章太郎は「真田太平記」で幸村と向井佐平次が出会うシーンに岩風呂の石湯を舞台に描いた。有島武郎は、大正5年夏、妻の死の傷心を癒すために柏屋別荘に滞在した。後に「信濃日記」で「別所はいい湯だった・・・。湯嫌いな私にもなつかしまれる湯の匂いが私の心を和やかにしてくれた」と述懐している。川端康成の「花のワルツ」、船橋聖一の「木石」もこの宿から生まれた。
追記:源泉かけ流しの共同浴場が4ヶ所ある。従来の「石湯」「大師湯」「大湯」の外に2008年5月から「愛染の湯」がオープンした。「愛染の湯」は入浴料が500円で、他はすべて150円と安いので嬉しい。湯が豊富な温泉地であっても、浴槽を循環にして塩素殺菌をしているところが大部分で、浴室のドアを開けると塩素臭がプーンと漂い、温泉愛好家にとっては、非常に嘆かわしい限りだ。
1981年8月に別所温泉に入浴(211湯目)以来、仕事の添乗で何度も訪れた。上田から別所温泉まで、上田交通が走り、別所温泉駅の切符も記念に購入した。「別所温泉郵便局」があり、記念に預金もした。温泉マニアにとって何かと垂涎の温泉地の一つと思っている。
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