魅惑のスリランカ7日間 旅行記 その2. (3日目) 2016.5.31 [海外のはなし]
魅惑のスリランカ7日間 旅行記 その2. (3日目) 2016.5.31
シギリヤロック
5月31日(火)朝食を7時に済ませ、8時にホテルを出発。シギリヤロックへ。約15分でシギリヤの入り口、赤土のロードを直進。5分で入場券売り場へ。8時30分にスピーカーで国歌が流れ、清掃中の職員たちが直立不動。つい我らも見習って・・・。
シギリヤ博物館
まずはシギリヤ博物館へ。周辺出土品、12体のシギリヤレディフレスコ画のレプリカなどが展示。城塞シギリヤの岩山の異形はもとより、「シギリヤ・レディー」(壁画)はセイロン美術の魅力を世界に知らしめた。シギリヤは、正しく歯、「シンハギリ」と称し、シンハとはライオン、ギリとは岩を指して全体で「ライオンの岩」を意味する。西暦前から、シギリヤは寺院、あるいは城塞であった。前266年、デーヴァーナンピヤ・テイッサ王は、この山を訪れこの地を「シヒギリ」と名付けた。前41年、マハラウリ王はそこに城塞や寺や座禅堂を建て、さらに前19年にオアテヤ王はそこの養老院を造っている。西暦に入って9年、マハー・ダリヤ王は仏塔を建て、477年に至って、有名なカッサパ王は城塞等を大規模に造営し、その際、岩山の側壁に壁画を描き込まれた。その100年後、サンガ・テイッサ王は、この地を放棄している。それ以降、長い間史実がなく1155年になって、パラークラマバーフ王がこの地を大いに再建し、これが現在、史書に見るシギリヤ最後の史実となっている。
かつてのシギリヤの城塞は、水濠によって囲まれ、さらに塁壁によって防御されていた。その囲壁内に黒く巨大に岩山(城塞)が突き出し、その大きさは南北で約400m、高さが約180mあった。長い間密林に眠っていたシギリヤ岩山の発見は、1831年、ある英国人によって世に紹介された。が、この人は当時この山頂へは登れず、1853年に2人の英国人によって登ることができた。しかし、美しい壁画の発見は、1875年の英国人デイビットによる。麓から望遠鏡を覗いて、西面の美人画を発見。その2年後の1877年、当時のセイロン提督の命によって、英国人ムレーが初めて、12体の美女たちの姿を模写した。
9時10分に城壁内の沐浴場へ。5世紀に造られた風を動力に水を汲み上げる仕組で雨水→噴水→溜池→沐浴場へ。元々は僧の修験場だった。年寄りを狙って、「ヘルプは?」と商売人が腰に手をあてて付きまとってくる。階段を登り、回廊の外側の壁面・ミラーウォール(鏡壁)へ。漆喰壁に多量な卵の白身とハツミツを石灰に混ぜ合わせたもので上塗り、その表面を丹念に磨きあげられている。7~11世紀にかけてのシギリヤの落書きがあり、この岩山を訪れた王、貴族、僧侶、高官、一般人の685点が確認できるという。その中に「岩山には五百人もの乙女たちの姿が描かれていた」という一文も。
昭和12年(1937年)杉本哲郎画伯が観察した際は、かなり鮮明に残っていたが、それからわずか40年ほどではげ落ちてしまった像もあった。40年前の紀行文には21体残っているとの記述があった。
ライオンの入り口(北側)に着く。黄色と黒の蝶のような模様のトンボが乱舞。かつては足、頭部もあり、大きく口を開けたライオンだったが、今は巨大な前足と爪の一部しか残っていない。急階段を登り、上へと次第に狭くなり皆息も絶え絶えの様子で10時15分に頂上へ。
シギリヤロック頂上
強風があり、とても涼しい。とても広い敷地1.6haには王宮跡(王宮・兵舎・住居)があり、プールを見下ろす石の玉座もある。下りの途中に大岩を半分に切り取った王と大臣の会議場もあった。下山して車中で、シギリヤ博物館で発行した「登頂証明書発行」をいただいた。
会議場
ボランナルワへ移動し、レストランでランチ。午後、世界遺産ボランナルワ観光
聖都ボランナルワは、シギリヤの東に当たり、大きな人口湖の東岸に接して、この都の城塞がある。ランカティラカは、13世紀にパラークラマバーフ一世3世によって建造。高さ17.5m、幅18m。両の壁入り口に守護神像、奥の中央に頭のない巨大な仏立像、手前右の出入り口天井に赤色が残る壁画が見える。北に真っ白のキリ・ヴィハーガ(仏舎利塔)が鎮座。1~5年に一度塗り替える。
さらに北へ移動し、ガル・ヴィハーラという瞑想する高さ4.6mの坐仏像・蓮の台座の上で腕を交叉する立像・全長14mの涅槃像が並ぶ。裸足で参観のため砂や石が焼けて熱く、飛び跳ねるようだ。ここに来て「半ズボンはダメだ!」とガイドに言われたが、今頃言われても・・・。出るまで見つからずに済んだ。
ポロンナウルは、8世紀以降、アヌダーラプルを首都としていた王たちの別荘地だった。都は14世紀以後、密林の中に眠り、19世紀末に考古学者に発見され樹木や木が取り除かれた。
旅程のブティックは、全員がパスすることで、予定より早く15時30分にホテルへ到着で来た。部屋は206号室に変更になり、早々にプールサイドで読書にした。寝転んだ姿勢で真上を見ると、ココナッツの実がたわわに実っている。青年従業員に「実が落下することはないのか?」と聞いたが「ノープロブレム!」本当かな?18時から皆でお酒とつまみを持ち寄って飲もうということになった。
19時からの夕食は、コース料理だった。焼き餃子のような揚げたエラワル・ロティ、ナポリタン、スイーツにコーヒー。
本日の拙句「積乱雲シギリヤロックのけぞけり」「岩山の玉座閑けき若葉風」「僧院の閑けき跡や夏の風」「瞑想の仏前砂の裸足焼け」「薄衣の天女壁画や夏の風」
ダンブッラの宿:ホテルエデンガーデン
HOTEL EDEN GARDEN 066-2286635
参考文献:NHK美の回廊をゆく ①はるかなる源流の旅「聖地スリランカ」
世界の聖域9 セイロンの仏都 講談社
スリランカの三宝 聖域行3 那谷敏郎著 平凡社カラー新書
☆温泉夜話 http://www.a-spa.co.jp/yawa/index.htm
☆高野山麓の天然水「月のしずく」http://www.a-spa.co.jp/onsen-shop/
☆旅と温泉の情報室 http://www.a-spa.co.jp/
☆旧街道を歩く旅 http://www.a-spa.co.jp/tabi/nikko/index.html
☆海外温泉入浴珍道中 http://www.a-spa.co.jp/junyoku/matsuno.htm
☆旅と温泉の思い出ショップ http://aaspa.web.fc2.com/shop/
☆おんせん県おおいたで、生活費1ヶ月6~7万円で過ごせるか挑戦中!第2弾
http://hide-tabi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-01
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シギリヤロック
5月31日(火)朝食を7時に済ませ、8時にホテルを出発。シギリヤロックへ。約15分でシギリヤの入り口、赤土のロードを直進。5分で入場券売り場へ。8時30分にスピーカーで国歌が流れ、清掃中の職員たちが直立不動。つい我らも見習って・・・。
シギリヤ博物館
まずはシギリヤ博物館へ。周辺出土品、12体のシギリヤレディフレスコ画のレプリカなどが展示。城塞シギリヤの岩山の異形はもとより、「シギリヤ・レディー」(壁画)はセイロン美術の魅力を世界に知らしめた。シギリヤは、正しく歯、「シンハギリ」と称し、シンハとはライオン、ギリとは岩を指して全体で「ライオンの岩」を意味する。西暦前から、シギリヤは寺院、あるいは城塞であった。前266年、デーヴァーナンピヤ・テイッサ王は、この山を訪れこの地を「シヒギリ」と名付けた。前41年、マハラウリ王はそこに城塞や寺や座禅堂を建て、さらに前19年にオアテヤ王はそこの養老院を造っている。西暦に入って9年、マハー・ダリヤ王は仏塔を建て、477年に至って、有名なカッサパ王は城塞等を大規模に造営し、その際、岩山の側壁に壁画を描き込まれた。その100年後、サンガ・テイッサ王は、この地を放棄している。それ以降、長い間史実がなく1155年になって、パラークラマバーフ王がこの地を大いに再建し、これが現在、史書に見るシギリヤ最後の史実となっている。
かつてのシギリヤの城塞は、水濠によって囲まれ、さらに塁壁によって防御されていた。その囲壁内に黒く巨大に岩山(城塞)が突き出し、その大きさは南北で約400m、高さが約180mあった。長い間密林に眠っていたシギリヤ岩山の発見は、1831年、ある英国人によって世に紹介された。が、この人は当時この山頂へは登れず、1853年に2人の英国人によって登ることができた。しかし、美しい壁画の発見は、1875年の英国人デイビットによる。麓から望遠鏡を覗いて、西面の美人画を発見。その2年後の1877年、当時のセイロン提督の命によって、英国人ムレーが初めて、12体の美女たちの姿を模写した。
9時10分に城壁内の沐浴場へ。5世紀に造られた風を動力に水を汲み上げる仕組で雨水→噴水→溜池→沐浴場へ。元々は僧の修験場だった。年寄りを狙って、「ヘルプは?」と商売人が腰に手をあてて付きまとってくる。階段を登り、回廊の外側の壁面・ミラーウォール(鏡壁)へ。漆喰壁に多量な卵の白身とハツミツを石灰に混ぜ合わせたもので上塗り、その表面を丹念に磨きあげられている。7~11世紀にかけてのシギリヤの落書きがあり、この岩山を訪れた王、貴族、僧侶、高官、一般人の685点が確認できるという。その中に「岩山には五百人もの乙女たちの姿が描かれていた」という一文も。
昭和12年(1937年)杉本哲郎画伯が観察した際は、かなり鮮明に残っていたが、それからわずか40年ほどではげ落ちてしまった像もあった。40年前の紀行文には21体残っているとの記述があった。
ライオンの入り口(北側)に着く。黄色と黒の蝶のような模様のトンボが乱舞。かつては足、頭部もあり、大きく口を開けたライオンだったが、今は巨大な前足と爪の一部しか残っていない。急階段を登り、上へと次第に狭くなり皆息も絶え絶えの様子で10時15分に頂上へ。
シギリヤロック頂上
強風があり、とても涼しい。とても広い敷地1.6haには王宮跡(王宮・兵舎・住居)があり、プールを見下ろす石の玉座もある。下りの途中に大岩を半分に切り取った王と大臣の会議場もあった。下山して車中で、シギリヤ博物館で発行した「登頂証明書発行」をいただいた。
会議場
ボランナルワへ移動し、レストランでランチ。午後、世界遺産ボランナルワ観光
聖都ボランナルワは、シギリヤの東に当たり、大きな人口湖の東岸に接して、この都の城塞がある。ランカティラカは、13世紀にパラークラマバーフ一世3世によって建造。高さ17.5m、幅18m。両の壁入り口に守護神像、奥の中央に頭のない巨大な仏立像、手前右の出入り口天井に赤色が残る壁画が見える。北に真っ白のキリ・ヴィハーガ(仏舎利塔)が鎮座。1~5年に一度塗り替える。
さらに北へ移動し、ガル・ヴィハーラという瞑想する高さ4.6mの坐仏像・蓮の台座の上で腕を交叉する立像・全長14mの涅槃像が並ぶ。裸足で参観のため砂や石が焼けて熱く、飛び跳ねるようだ。ここに来て「半ズボンはダメだ!」とガイドに言われたが、今頃言われても・・・。出るまで見つからずに済んだ。
ポロンナウルは、8世紀以降、アヌダーラプルを首都としていた王たちの別荘地だった。都は14世紀以後、密林の中に眠り、19世紀末に考古学者に発見され樹木や木が取り除かれた。
旅程のブティックは、全員がパスすることで、予定より早く15時30分にホテルへ到着で来た。部屋は206号室に変更になり、早々にプールサイドで読書にした。寝転んだ姿勢で真上を見ると、ココナッツの実がたわわに実っている。青年従業員に「実が落下することはないのか?」と聞いたが「ノープロブレム!」本当かな?18時から皆でお酒とつまみを持ち寄って飲もうということになった。
19時からの夕食は、コース料理だった。焼き餃子のような揚げたエラワル・ロティ、ナポリタン、スイーツにコーヒー。
本日の拙句「積乱雲シギリヤロックのけぞけり」「岩山の玉座閑けき若葉風」「僧院の閑けき跡や夏の風」「瞑想の仏前砂の裸足焼け」「薄衣の天女壁画や夏の風」
ダンブッラの宿:ホテルエデンガーデン
HOTEL EDEN GARDEN 066-2286635
参考文献:NHK美の回廊をゆく ①はるかなる源流の旅「聖地スリランカ」
世界の聖域9 セイロンの仏都 講談社
スリランカの三宝 聖域行3 那谷敏郎著 平凡社カラー新書
☆温泉夜話 http://www.a-spa.co.jp/yawa/index.htm
☆高野山麓の天然水「月のしずく」http://www.a-spa.co.jp/onsen-shop/
☆旅と温泉の情報室 http://www.a-spa.co.jp/
☆旧街道を歩く旅 http://www.a-spa.co.jp/tabi/nikko/index.html
☆海外温泉入浴珍道中 http://www.a-spa.co.jp/junyoku/matsuno.htm
☆旅と温泉の思い出ショップ http://aaspa.web.fc2.com/shop/
☆おんせん県おおいたで、生活費1ヶ月6~7万円で過ごせるか挑戦中!第2弾
http://hide-tabi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-01
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2016-06-09 17:28
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