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旧道歩き閑話 旧街道歩きの難行苦行のはなし [旧街道を歩く]

旧道歩き閑話 旧街道歩きの難行苦行のはなし
殿様の駕籠 親不知超え 旧道歩き閑話.jpg
親不知子不知

旧街道歩きには、箱根の急坂が続く「箱根七里」など多くの峠道や大川渡しなどの難所がつきもの。悪天候ともなれば、なおさらである。難所でも、変わった難所と難所をどう克服して通り抜けかを紹介したい。

松尾芭蕉が「奥の細道」を歩いていたころ、越後の柿崎から春日新田に至る地域は、桶で塩水を汲み上げる「揚げ浜法」で、浜に棒をさすとそのまま沈んでしまう場所で、駕籠かきたちは、40㎝もある板に鼻緒をすげたものを履いて、べたべた歩き、休む時は杖が沈まないようにその板の上に杖を解いていたという。こうした湿地地帯が越後の日本海側に多かった。今でこそ、防砂林や防風林が作られ、道路が整備されているが、当時は難渋を極めたはずだ。
北陸道最難関は親不知子不知で、波打ち際から断崖まで15~16m、場所により100mもあった。風の弱い引き潮時は静かな砂浜を歩くことができたが、最も厳しい500mの箇所をどのように通過するのか?加賀藩参勤交代では、越中新川郡の「波除け人足」500~700人が麻縄を持ち、ふんどし一丁で7列の波除け人足として人垣を造って海辺の道を駕籠に乗った藩主を守り、馬の荷を下ろし、人間が荷を担いで馬は空荷で通していた。雪道の道中も厳しい。文政元年(1818年)2月、除雪が追いつかぬほどの深雪で、馬足が立たず難行したところ、筵(むしろ)をかき集めて道に敷き、馬を無事に通すと、今度はその先々へ筵を送り継ぐという方法をとって、雪見の道中を乗り切った。

加賀藩領になる越後・越中の山々の水を集めた神通川に架けられた船橋の方法もあった。64艘の船が雌雄二筋の大鎖でつなぎ留められて出来ていた。雌鎖は瓢箪型で雄鎖は楕円形の環でできていた。大鎖を巻く大杭は欅材で直径4尺、地上へ1丈5尺でできていた。船橋を架けるに際し、4・5日以前より架けさせ、急な出水のため徒渡りが不可能になり、或いは出水の度に川の瀬が常に変わったり、藩主が通る当日に押し流されることもしばしば起こったという。
夏 風鈴と朝顔.jpg

長年の大名行列の経験から、いろいろな工夫がされたが、湿地地帯や、断崖絶壁、峠道の通行に関したことだけでもこのような難行苦行を避けられなかった。

参考:鈴木一夫著「参勤交代道中記」
晶文社 金森敦子著「芭蕉はどんな旅をしたのか」

☆温泉夜話 http://www.a-spa.co.jp/yawa/index.htm
☆高野山麓の天然水「月のしずく」http://www.a-spa.co.jp/onsen-shop/
☆旅と温泉の情報室 http://www.a-spa.co.jp/
☆旧街道を歩く旅 http://www.a-spa.co.jp/tabi/nikko/index.html
☆海外温泉入浴珍道中 http://www.a-spa.co.jp/junyoku/matsuno.htm
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 http://hide-tabi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-01

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コメント 2

馬爺

昔のこの参勤交代は大変だったようですね、とくに親不知子不知は道が海水を被るために干潮の時に並が引いたとき直ぐに次の岩に渡るんですね、それの繰り返しですから時間が掛かったそうです。

by 馬爺 (2016-07-27 12:36) 

風来鶏

静岡市と焼津市の間にある「大崩海岸」は、東海の"親不知子不知"と呼ばれる絶景で、UFOの名所ともなっています(^_^)v
by 風来鶏 (2016-07-29 23:41) 

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